熊本地震に思うこと

2016年05月12日

「非常災害指定」も決定し、マスコミの躁状態とも言うべき感情的報道もひと段落した時期なので地震について書こうと思う。

「地に足をつけた」や「地に根を下ろした」という表現でもわかるが、地面は私達が「自分は自分であること」を確認する根拠という意味合いがある。地が揺れる、ということはすなわち、「私」の根拠がゆらぐということを指している。地震は単に物質的人的被害を伴う恐怖という意味合いではなく、アイデンティティの危機を意味している。

自宅が倒壊して避難所暮らしをしている人々は正にアイデンティティの喪失、自分が何者かわからなくなる状況にいる。

東日本大震災の際、避難所の人々が初対面の医師やボランティアの人に写真を見せながら、私はいついつ生まれでどこそこに住んでいて、これはそのときの写真でここに写っている人物が私なんです、と訴えたそうだ。そういう自分の歴史を写真を見せながら語る被災者がたくさんいたそうである。ここでの自分が写っている写真は、単に思い出というレベルのものではない。被災して家を失った人にとって、写真は自分のアイデンティティーを外部から証明する唯一のものなのだ。

私も震災直後に、津波で家族が行方不明になってしまった中年女性が「みんなどこへ行ったかわからない、ひとりぼっちになってしまう!」とカッと目を見開いて叫んでいたのを映像で見た。胸がつぶれるような気持ちがした。
あのときの女性の恐怖の表情は、家族を失ってしまったという悲しみだけではない。家も家族も自分の歴史を証明するものがなくなってしまい、自分が何者であるかという同一性を喪失した恐慌ではなかったか。

今回の地震での被災者も、そういうアイデンティティ喪失のただ中にいる。
復旧には時間がかかる。仮設住宅が整うのでさえ6月までかかるそうだ。彼らが日常を、自分の歴史を取り戻すのははるかに先のことだ。今後、欝になる者も出るだろう。あるいは躁になる者も。いずれにせよ平静ではいられない。被災者にはこれからそんな時間が待っているのだ。

しかし、私たちは今回被災者ではない。だから欝にも躁にもなってはいけない。集団ヒステリーのように大量に感情を煽ったあとで、もう不倫した芸能人の話題に関心が移行して地震は終わったかのような引きかたをしてはいけない。「がんばれ熊本!」と叫んで何かしたような、すっきりした気持ちになってはいけない。一時の感情の奔騰に身を任せて涙したり、自分も今できることをしますなどとヘリウムより軽い言葉を発信してはいけない。

被災していない人間が、奇妙な躁鬱状態になってはいけない。

作家・思想家の佐々木中の公演の一部を挙げる。

・・・(講演を聞いている聴衆に向かって)ここにいる人はたぶん被災者ではない。最前線にいる人たちじゃない。躁になったり欝になったりしている場合ではない。そんな資格はない。それだけです。・・・

私たちもいずれ震災に遭う。その時まで地震の被害に遭うということの意味を考え、被災者の状況と被災地の状況を心のどこかに留め続けること。静かに。

それしかないはずだ。